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西島伊三雄カレンダー

 西島雅幸様から三種類の西島伊三雄カレンダーを頂戴致しました。
 我が家は毎年各部屋が伊三雄童画のカレンダーに包まれております。
 来年は「こころの思い出」「仲良しこよし」「昭和あの頃」です。
 「昭和あの頃」は、雅幸様が補筆され、伊三雄先生の懐かしいご遺影と

 石鹸のように
 わが身を溶かして
 周りの人に尽くせたら
     平3.12.2
 
 青インクの遺筆が印刷されています。

 西島雅幸様は、伊三雄先生の長男で(株) アトリエ童画 ・(有) いさお企画 代表取締役社長、博多町人文化連盟理事長など。俳誌発刊当初より長きにわたり、いつも温かいご賛同ご助力を頂いており、そのお人柄に触れるたび恵まれた思いでいっぱいになります。
                   ❖ 

 夕焼け 小焼けの
 赤とんぼ
 追われて 見たのは
 いつの日か

 西島 雅幸

 日曜日はアトリエで一人、カセットから流れてくる童謡を口ずさみながら、童画を描いていた亡き父・西島伊三雄。そのイラストを使用して頂いていた俳句雑誌『ばあこうど』の多田薫さん孝枝さんより「今度新たに『六分儀』と改題して復刊することになりました。又、お父さんのイラストを使用させてください」と、大病をされた方とは思えぬ程の元気な声で、電話を掛けてこられた時は、ほんとうに驚かされ、このエネルギーは一体何だろう! と改めて感心させられました。ほんとうに良かったですネ。おめでとうございます。

 私自身、形式的な挨拶や格好つけたコピーなどは、どうも好きになれません。だから年賀状や暑中見舞状などは、どんなにしゃれていても、印刷されただけのものは心が通じ合わないので、後(あと)から見直す事も無く、ちょっとでも添え書きがあれば、大事に持っていて返事を書きます。だから俳句のことは全然解りませんが、五七五調で滑稽味を帯びた詩歌を作れば、読んでくれるのではと一昨年、佐賀で玉子の生産農場を営んでおられる社長さんに、五七五調で年賀状をお出ししました。丁度フランク永井の「君恋し」がラジオから流れてきたので
 玉子食べ あの人想う 黄味恋し
と書いてお出しすると、とても気に入っていただき「色紙にこの句を書いてください」と言われたので、ヘタな筆文字で書いて渡すと、沢山の玉子と鶏肉、そして新鮮な野菜がドッサリ送ってきました。これも五七五調の俳句のおかげです。感謝! 感謝!

 最近、バブルがはじけたのはお金だけでは無く、一番大事な人間の心がはじけたのではと、よく思うようになりました。だから人々が忘れかけている思いやりや懐かしい情景、美しい日本の言葉、そして日本の四季の素晴らしさを、亡き父のイラストと俳句を通して、読者の方々に感じて頂ければ幸いです。
 これからの俳誌『六分儀』の益々の発展を心よりお祈り申しあげます。
 六分儀 祝い目出度で 手一本!

        【俳誌『六分儀』第11号より】

                    ❖
 
 今年も残りわずか、本当にお世話さまになりました。
 皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 来年もどうかよろしくお願い致します。

 

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命のリレー

 続きゐる地震の合間に耕せる   山下しげ人

 『ホトトギス』平成28年8月号 第119巻8号 雑詠選巻頭

 山下しげ人 (やました しげと)
 昭和34(1959)年、熊本県八代市生まれ、在住
 1973年、「ホトトギス」投句、初入選
 ホトトギス同人/日本伝統俳句協会評議員(九州地区事務局長)
 2005年、私設「ふる里俳句館」開館、同館長

              ❖
 
   たうらう
         
 かまきりの元気全身草の色
 蟷螂の枯れはじめたる歩みかな
 蟷螂の背ナに枯れ色奔りけり
 蟷螂の枯れて無用となりし翅
 合掌の枯蟷螂となりにけり

  【俳誌『六分儀』第11号 賛同掲載5句】

              ❖

  
   命のリレー
        
         作詞作曲:中島みゆき

 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴(つか)んで 願いを引き継いでゆけ

 ごらん 夜空を星の線路が
 ガラスの笛を吹いて 通過信号を出す
 虫も獣も人も魚も
 透明なゴール目指す 次の宇宙へと繋(つな)ぐ

 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ


 僕の命を 僕は見えない
 いつのまに走り始め いつまでを走るのだろう
 星も礫(こいし)も人も木の葉も
 ひとつだけ運んでゆく 次のスタートへ繋ぐ

 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ





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山本素竹・遊印展

  ❖山本素竹・遊印展❖のお知らせ

 「書」などの作品に欠かすことのできない印。
 その印の朱が捺されて作品は完成します。
 中国製印泥の質と色に関心の集まる昨今です。
 「遊印」とともに印泥の色など、ご高覧いただければ幸いです。
  (使用印泥など展示いたします)

 ❖2016年1月2日(土)~10日(日)AM10:00~PM6:00

 ❖画廊 あ・と
  群馬県渋川市渋川1827-41 メンズショップ ミユキ 2F 
   0279-22-0464(事務局)
  渋川駅から徒歩3分、お車はエッグホール駐車場をご利用ください。

 
 山本素竹(やまもと・そちく)

 1951年 群馬県生まれ 書を木暮慶香・大洞に、篆刻を保田孝三に師事
 1981年より書・篆刻などの個展を続ける
                        【頂いた案内状より】
           
 ホトトギス同人/(公社)日本伝統俳句協会会員/俳誌『六分儀』選者

            ❖
 
 手のひらを零れ蛍の夜へ戻る  山本素竹

 『ホトトギス』平成28年1月号 第119巻1号 雑詠選巻頭 

            ❖ 
 
 この一年、本当にいろいろお世話さまになりました。
 来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 初春の遊印展、山本素竹さんの世界を皆さま展観くださいませ。
 
 
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『貨車捌く 中山十防句集』(六分儀俊英シリーズ第8集)

『貨車捌く 中山十防句集』
 (六分儀俊英シリーズ第8集)

出版社: 花乱社 (福岡市)
単行本:四六判/上製/ 212ページ
発売日:2015年9月12日

❖帯文紹介

 鰯雲引き込み線の錆深く
悠久の自然の営みにも、生きとし生けるもののささやかな日常にも、等しなみに注がれる眼差し。
質朴で伸びやかな句に写された命の刹那。
写生による句日記の正統

 赤子にも寝言のありて初笑ひ
 初つばめ駅舎をぬけて急昇す
 石仏か標の石か蛇苺
 アイガーの北壁の威や濃りんだう
 年用意犬を洗ひて終りとす

口絵色紙:下村非文/永田蘇水  題字:山本素竹
定価:本体1700円+税

【目次】

 駅深夜  昭和五十~六十四年
 山茶花  平成元~十五年
 赤 子  平成十六~二十七年
 あとがき
 季題別索引

                ❖

 中山十防(なかやま・とんぼう)略歴

昭和二十四年九月十二日、佐賀唐津市に生まれる。
昭和四十三年に国鉄(現JR)入社。
昭和五十年より永田蘇水師に師事して、俳句を始める。
昭和五十一年より『山茶花』誌友となる。
昭和五十九年、山茶花同人
平成元年より公益社団法人日本伝統俳句協会会員
平成七年、「根っこの会」発足時より参加、同人。
俳誌『六分儀』同人会長
佐賀県唐津市在住

                ❖
 
 二月、俳誌『六分儀』第11号発行に続いて、この度、六分儀同人の中山十防さんが『貨車捌く 中山十防句集』(六分儀俊英シリーズ第8集)を刊行されます(九月十二日発売)。
 
 虫の声しきりに夜半の貨車捌く
 我が息の白きを見つむ駅深夜

 中山十防さんはJR勤務、旧国鉄マンで、貨車捌くほか一連の鉄道俳句にJR以前の往時、昭和という時代を彷彿と、懐かしく胸を打たれます。いつも勤務の合間を縫い、温かい笑顔で句会に参加される質朴なお人柄は今も変わりません。  
 俳句も培われた自然諷詠、写生句ばかりです。好きな登山や山茶花吟行の折に詠まれた各地の四季を存分に、季題が動かぬ爽やかで伸びやかな十防俳句の真髄を、この句集から確と感じ取ることができます。
 「あとがき」の中に「亀のようにぼちぼちと続けてみよう」とありますが、「職場の句会も一人二人とやめてしまい、こつこつ地道な十防さんが残ったよ」と今は亡き永田蘇水氏の言葉を思い起こします。
 急がず気負わず強靭な中山十防さん。自然や生命や時代を諷詠された初句集上梓でございます。
 ご一読頂ければ幸いに存じます。
 



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一冊の重さ

一冊の重さ

 山本 友美

 書くことは苦にはならなかった。父が一人娘の私に全ての期待をかけ、三歳頃から日記をつけさせた。毎日一行でもいいし、絵日記でもいいからと押し付けた。それが習慣になったのかもしれない。
 高校時代は文芸部に所属していた。本当はバドミントン部に入りたかったのだが、若い時に体を酷使したらいかん、という父の反対で文芸部にした。『佳風』という文芸誌に詩やエッセイを書いた。
 卒業後、浪人中に公務員試験に受かり福岡市箱崎の大学就職した。間借りの大家さんは多田さんだった。大家さんの一人娘が孝枝ちゃん。私たちは一人っ子どうし姉と妹のようになった。大学に勤めていた六年余は書くことをさぼっていた期間でもある。
 私の夫となる、李卜之は在日韓国人だった。このことが書く手がかりとなった。結婚後、帰化をして山本耕之と改名した。夫は穏やかな人柄だったが、改名を法務局から迫られた時は呻吟した。再就職する時には夫の両親の韓国名がネックとなり彼を苦しめる。このような状況を綴れるのは私しかいない、と記録していった。
 昭和五十六年、文芸評論家・松原新一氏(二〇一三年八月十三日逝去)が主宰される久留米文学学校に通い始め、一期生として連なる。松原先生の講義は書く手ほどきというものは皆無だった。自身の内面を見つめなさい、とよく言われた。自分の内なるものに耳を傾けなさい、と。ところが私は自身を見つめることよりも現実世界を回すことの方が忙しく終始あたふたと生活していたように思う。文学学校OBで「河の会」という勉強会を発足し、松原先生に指導を仰いだ。同人誌『河床』を発行することになり、私も毎号何かしらの作品を書き、河の会は十人前後で月に一回今も継続している。
 ある時、松原先生が「山本さんもこれまでの作品をまとめてみたらいいですね」と言われた。一応頷いたけれど具体的には進まなかった。
 これまで発表してきた作品を本にしてみようかと現実に思い始めたのは、弟分の薫さんと妹分の孝枝ちゃんが久留米に引っ越して来てからだ。「おねえちゃんが本を創るときは手伝うよ」と夫婦で言ってくれていた。まもなく松原先生が体調を崩され入院。もし本を刊行する折には、序文をお願いしようと前から決めていた。先生のアドバイスがあってこそ私の本はできるものと思っていたのに……。容態が悪化し面会謝絶になられたけれどご夫人の好意で病室に夫と入った。目を瞑られている先生に「先生、私の本に序文を書いていただかないと」と耳元で言うと、うっすらと目を開けられ軽く頷かれた。
 一冊にまとめなければいけない。松原先生と約束したのだもの。私の中に決意が生まれた。二〇一三年の晩夏だった。それからの十か月、ベッドの上の妹とともに編集作業が始まった。一冊を編む。初めて体感する本づくりの現場。花乱社の別府大悟さんも全面的に加わってくださる。時には姉、妹で口喧嘩をしては、いつのまにか仲直り。三者ともにいい本にしたいという思いが底辺にあり共有していた。ぶつかるのも、そこにこだわってこそという意志がひしひしと伝わってくる。睡眠不足でふらふらの妹なのに私が帰る時はいつも「おねえちゃん、気をつけて帰りいよ」と気遣い、薫さんは西鉄久留米駅までボディガードをしてくれた。いつかは、少しでも早く駅に行こうと薫さんと自転車の二人乗りをして、途中ひっくり返って「おねえちゃん大丈夫?」「頭打たなかった?」とお互い心配し合い、二人とも軽症で「よかった、妹には内緒」と約束し合ったのに、すぐにばれた。最終稿を別府さんに委ねた時は本当に「よかった、よかった」と私は喜んだけれど、妹は輪転機が回り始めても、納品日までは、と気を抜かない。
 『また「サランヘ」を歌おうね』はこうして私たちの前に姿を現した。
 松原先生の友人で、「こうじ、こうじ」と夫を慈しんでくださる在日の詩人・金時鐘氏の序文、ともすれば雑事に心を奪われ、書くことを後回しにしがちな私を叱咤激励してくださる劇作家・田島栄氏の解説、そして松原新一先生の評論を戴いて自分でいうのもおこがましいが、本当にあたたかい本が誕生した。
 自分で編んでみてわかった。一冊の本を出版するのは作者だけの力では断じてない。家族はもちろんのこと、どれほどの人々の愛情をもらって誕生していくのか身に入みた。そして、一人でも多くの方々にこの本を読んでいただきたいという願いとなる。
 出版して半年。思いきって本を編んでよかったと感じるのは、思いもかけぬ同級生や、昔関わってきた人たちからの連絡でもあった。
 「このたびの出版おめでとうございます。西野君から友人に広めてくれとメールがあり、東京地区、大阪地区の五回生にメールしました。一応行きわたったと思います。ご活躍本当にうれしく思っているよ。広報部長として頑張ります」
 長崎南高校五回生で東京在住のあやみさんからメールがはいった。あやみさんとは二十年ほど音信不通だったし、福岡に住む西野君とは高校時代には喋ったこともなかった。たまたま福岡で年に一度ある長崎南の同窓会総会で初めて会ったのだ。それなのに、彼ら、彼女らは初めて出版した私の著書を一冊でも広めようと応援してくれている。
 「みんななつかしがっていますよ。宣伝しますからね」とグリーンコープの専従からの声援。二十数年を経てあの時の彼は専務に昇進していた。
 『また「サランヘ」を歌おうね』が人と人との懸け橋となってくれている。
 京都に住む文芸部の先輩からの一言。
 「友美がこの本を書いて、耕之さんが一番報われたと思うよ」
 この言葉を反芻しながらこれからも書き続けていきたい。







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ちょっと不愉快なこと  二十四節気の見直し  

ちょっと不愉快なこと  二十四節気の見直し

 筑紫 磐井

 今を去る四年前、ちょっとした事件があったことをご存じだろうか。平成二十三年二月に、日本気象協会が突然、「日本版二十四節気~日本気象協会は新しい季節のことばの提案に取り組みます~」を発表した。「二十四節気は古代中国で成立したため、日本の季節感と合致しないところがあり、現代の日本にはなじみの薄い節気の呼称がある。気象協会は、専門委員会の設置やシンポジウムの開催などを通して、広く一般の方々からのご意見を募集し、平成二十四年秋を目途に日本版二十四節気を提案する予定」なのだという。
 これを受けて、同年十二月には「日本版二十四節気専門委員会」第一回が開催された。専門委員会メンバーは、委員長新田尚(元気象庁長官)、委員に安達功(時事通信社)、石井和子(元TBSアナウンサー)、岡田芳朗(暦の会会長)、梶原しげる(フリーアナウンサー)、片山真人(国立天文台)、長谷川櫂(俳人)、山口仲美(明治大学教授)であった。
 また平成二十四年二月には、専門委員の岡田・梶原・長谷川のほかに、気象庁予報官を招いて、気象協会メセナ「季節が薫るひととき」を開催した。岡田芳朗が得々として見直しの必然性を語っていたのが印象的だ。
 一方で科学的な調査を名目とするために、すでに前年八月には気象協会が全国四千名を対象に実施した二十四節気に関する認知度調査(楽天リサーチ株式会社協力)を実施していた。相当予算をかけた調査だったようである。当然のことながら、国民はほとんど二十四節気を知らないという回答が集まった。
 こうした着々とした動きに、俳人たちから強い抗議がわき起こってきた。多くの新聞や雑誌で反対の意見が表明されたが、反対の頂点を成したのは、折しも七月、長野県小諸市で開かれた「こもろ・日盛俳句祭」でのシンポジウム「私にとって季語とは」(パネラー:気象協会金丸事業課長、俳人は片山由美子、櫂未知子、筑紫磐井、本井英)であった。結局、このシンポジウムに出席した気象協会の担当課長は、「二十四節気の見直しは気象協会という技術集団の素朴な質問から発したもので、広く専門家の意見を徴することとした。その過程で、気象予報の先輩である倉嶋厚氏などいろいろな人から批判もあり、現在は、二十四節気は変えず、解説とか言い添える形で分かりやすくしたい。」と回答している。
 その直後、例えば毎日新聞では、「〈日本版二十四節気〉俳句界などの反発で解説作りに方針転換」(九月二十七日)というタイトルで、「気象協会は昨年、名称を変更したり、時期をずらしたりすることも視野に入れ、日本版を作成するとホームページなどで公表した。これに対し、一般からも電話がかかるなど批判が殺到。これを受け、二十四節気それぞれに簡潔な解説を付ける方向に変換した。」と報じている。事態は急転直下収束に向いかけた。
 ただ、日本気象協会は新しい「季節のことば」にはこだわりつづけ、豪華賞品を付して「季節のことば」の公募を開始し、「季節のことば選考委員会」(日本版二十四節気専門委員会の名称を改称したもの)により「季節のことば36選」を選定した。奇妙なことに、七月は意見が割れて三つに絞りきれず、全体で37となっている。選ばれた「季節のことば」は次のようなものであった。

【春】三月(ひな祭り、なごり雪、おぼろ月)、四月(入学式、花吹雪、春眠)、五月(風薫る、鯉のぼり、卯の花)
【夏】六月(あじさい、梅雨、蛍舞う)、七月(蝉しぐれ、ひまわり、入道雲、夏休み)、八月(原爆忌 [広島と長崎]、流れ星、朝顔)
【秋】九月(いわし雲、虫の声、お月見)、十月(紅葉前線、秋祭り、冬支度)、十一月(木枯らし1号、七五三、時雨)
【冬】十二月(冬将軍、クリスマス、除夜の鐘)、一月(初詣、寒稽古、雪おろし)、二月(節分、バレンタインデー、春一番)

 俳人が見て、取り立てて驚くようなものはない。ほとんど歳時記に載っているものばかりである。
 平成二十六年五月、日本気象協会は今までの二十四節気に関する議論をまとめた『季節のことば~ 「季節のことば36選」と「二十四節気ひとこと解説」~』(全二四九頁)という大冊を刊行した。いまごろ、全国の図書館に寄贈されているはずである。いかにもお上らしい。
 私が邪推するところ、新規事業に飢えていた気象協会幹部が、この際新しい二十四節気を作りちょっとした事業を興したいと考えたのが発端のようだ。これに、暦の会会長の岡田芳朗が便乗した、とメセナのシンポジウムでの説明では聞き取れた。俳人の長谷川櫂は見直しにあまり積極的ではなかったようだ。
 いずれにしても、変な行政や、便乗する学者によって歴史が歪曲されるのは気持ちよいものではない。しかし、それも俳人自身が、季語は大事といっておきながら、歳時記や季寄せの依って立つ二十四節気に無関心であったとがめではないかと思う。その意味では、いい教訓となったのではなかろうか。
 この時、二十四節気騒動にちなみそれを題とした俳句を募集した。その一端をご紹介しよう。珍しい題が多いのでなかなか面白い。

 論争の一人がハンサムにて穀雨    池田 澄子
 清明やノートに赤き丸ひとつ     小早川忠義
 処暑の街シャガールを見て雲を見て  杉山 久子
 夏至すでに霞ヶ浦のにほひかな    関  悦史
 小満の碁に憤り禿頭         曾根  毅
 トラクター売つて歩いて雨水かな   本井  英
 霜降や欄干ばかり今戸橋       本井  英


(注)岡田芳朗氏は、平成二十六年十月二十一日に死去されました。










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虚子の俳句

虚子の俳句                            
 
 坊城 俊樹

 一九九九年八月七日、坊城俊樹先生を福岡にお迎えし、アクロス福岡(福岡市)において、「虚子の俳句」というテーマで福岡市初の講演をして頂きました。当日は定員を超え満席、立ち見の活況を呈しました。また、講演に先駆け、八月五日付西日本新聞朝刊に、俊樹先生のご寄稿「高濱虚子と銀河」が大きく掲載されました。(記事は、俳句雑誌『ばあこうど』第3号に抜粋転載)
 ここに、講演会当日配布したレジュメ(十七枚)より、抜粋させて頂きます。

高濱虚子 たかはま・きょし(本名・清)

 明治七年二月二十二日、愛媛県松山市長町生まれ。
 池内家の五人兄弟の末子に生まれるが祖母方の高濱姓を継いだ。池内家は能楽の家として知られる。
 智環小学校、愛媛県第一中学、松山高等小学校、愛媛県伊予尋常中学と変遷し河東碧梧桐と出会う。
 明治二十五年京都第三高等中学入学。後、碧梧桐とともに仙台第二高校に編入。このころより文学に対する情熱が本格的になってくる。やがてここを退学し東京へ渡り放蕩の暮らしをおくる。当時、虚子らの師である正岡子規はそれを憂いたが俳句に対する情熱を続けるようさかんに説得した。
 明治三十年、柳原極堂は虚子らとともに『ほとゝぎす』を創刊。虚子は「国民新聞」俳壇の選者でもあった。
 明治三十年六月大畠いとと結婚。日暮里に移り住んで明治三十一年十月、新生『ホトトギス』の第2巻第1号としてそれを継承した。
 やがて明治三十五年九月の子規の死去を境に碧梧桐との間に少しずつ対立の構図があらわれはじめる。そして碧梧桐の「温泉100句」を虚子が批判したことによる碧梧桐の実景主義と虚子の古典的情感主義とのせめぎ合いがはじまる。
 このころより虚子は写生文に惹かれ各種文章を『ホトトギス』に掲載し、夏目漱石の「吾輩は猫である」を明治三十八年より連載することとなる。その他には「野分」「坊ちゃん」や寺田寅彦「竜舌蘭」伊藤左千夫「野菊の墓」など多彩な執筆陣をはることになった。
 虚子自身も、写生文として「由比ヶ浜」「湯河原日記」「幻住庵の跡」「影法師」「屠蘇に酔うて」など、そして明治四十年になると小説「風流懺法」「斑鳩物語」などを次々と発表した。明治四十一年国民新聞の文芸部長となり、「俳諧師」「続俳諧師」「朝鮮」などの執筆にあけくれるも『ホトトギス』の漱石の連載終了とともに経営難におちいる。
 当時碧梧桐は俳句の分野において自由律などの新傾向の勢力を作り始め、それを憂えた虚子としても俳壇復帰を果たすべく、大正二年には「春風や闘志いだきて丘に立つ」という句を詠みその意志を現した。
 それに遡る明治四十五年に雑詠欄を復活させ俳句雑誌としての復活を目指し、徐々に発行部数も取り戻しつつ『俳句とはどんなものか』『俳句の作りやう』『進むべき俳句の道』などの著作を中心として作家を育成し、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅などの俳人を世に送り出すことになる。
 一方虚子は俳句作品としての有季定型の理念を軸に子規の客観主義を継承することで、近代の俳句の流派としての地位を確保してゆく。そして昭和三年に「花鳥諷詠」の説を明らかにする。
 その後、水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十らの四Sらを輩出するが昭和六年、秋桜子が素十を中心とするその俳句観の相違により『ホトトギス』を脱会し『馬酔木』を主宰するという事態になる。
 虚子としては写生の立場にある素十の傾向がより自分に近いものであると論評するが、秋桜子としても「自然の真と文芸上の真」という文章によって反論をした。その結果若手を中心に新興俳句が沸き上がり、再びの有季定型を否定する勢力として俳壇に論争が発生することとなった。
 昭和十年代において虚子は花鳥諷詠、客観写生こそが俳句の神髄であるとしてそれを伝統俳句の王道として隆盛をきわめる。しかし一方で秋桜子としての活動も伝統をふまえた人間探求派の排出などにより浸透してゆくこととなる。
 昭和十一年二月、虚子は欧州への俳諧伝播の旅に出る。途中、上海、シンガポール、アデン、カイロと来てフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスと巡り各地で講演をし、クシュ―、ヴォカンスらと懇談するも季題論の部分ですれちがいに終わる。詳細は『渡仏日記』に収蔵。
 昭和十五年、日本俳句作家協会が結成され、その会長に就任。やがてその組織は日本文学報国会俳句部に編成され、その部会長になる。
 昭和十九年にもなると戦時色も濃くなり、虚子は長野県小諸市に疎開し「小諸百句」、また小説の「虹」三部作をその時に執筆。昭和二十二年には発表する。
 この小説には本会副会長であった故伊藤柏翠本人が、その登場人物として森田愛子と虚子との交流をし、その崇高なる情交の推移を淡々と描写してゆく美しさに、虚子の小説作品の代表的なものの一つとされている。
 虚子はその後、鎌倉をその活動の中心として近代以降の俳句界の巨星として活躍し、その歴史的価値は芭蕉時代以降においては子規に次ぐものとして、おそらく日本史の中に銘記されてゆくものと考えられ、昭和二十九年には俳人としては史上初の文化勲章を授与された。
 昭和三十四年四月八日自宅にて死去。享年八十五歳。従三位勲一等瑞宝章を賜る。墓は神奈川県鎌倉市の寿福寺にあり、その墓石にはただ「虚子」とのみ書かれ、その横に白童女(早逝した虚子の娘、六(ろく))と紅童女(同虚子の孫)とともに眠っている。
 戒名「虚子庵高吟椿寿居士」。


虚子俳句五十抄(新年・春・夏・秋・冬)             
 坊城 俊樹 抄出

去年今年貫く棒の如きもの
大空に羽子の白妙とどまれり
手毬唄かなしきことをうつくしく
やり羽子や油のやうな京言葉
碧梧桐とはよく親しみ争ひたり
たとふれば独楽のはぢける如くなり
鎌倉を驚かしたる余寒あり
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ
紅梅の紅の通へる幹ならん
ものの芽のあらはれ出でし大事かな
春風や闘志いだきて丘に立つ
怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に
亀鳴くや皆愚かなる村のもの
天日のうつりて暗し蝌蚪の水
咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり
海女とても陸こそよけれ桃の花
帚木に影といふものありにけり
眼つむれば若き我あり春の宵
春の山屍をうめて空しかり
白牡丹といふといへども紅ほのか
山国の蝶を荒しと思はずや
蓑虫の父よと鳴きて母もなし
神にませばまこと美はし那智の滝
夏潮の今退く平家亡ぶ時も
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
虹立ちて忽ち君の在る如し
蜘蛛の糸がんぴの花をしぼりたる
風生と死の話して涼しさよ
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
風が吹く佛来給ふけはひあり
天の川の下に天智天皇と臣虚子と
虚子一人銀河と共に西へ行く
石ころも露けきものの一つかな
子規逝くや十七日の月明に
金亀虫擲つ闇の深さかな
秋天の下に野菊の花弁欠く
燈台は低く霧笛は峙てり
秋風や眼中のもの皆俳句
桐一葉日当りながら落ちにけり
爛々と昼の星見え菌生え
ふるさとの月の港をよぎるのみ
遠山に日の当りたる枯野かな
流れゆく大根の葉の早さかな
大根を水くしやくしやにして洗ふ
天地の間にほろと時雨かな
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり
旗のごとなびく冬日をふと見たり
手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ
大空に伸び傾ける冬木かな
冬帝先ず日をなげかけて駒ヶ嶽
  (収録にあたり、若干の修正をしました)

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花のある役者の「花」

花のある役者の「花」
 橘  英哲

 もう何年も前の博多座大歌舞伎である。その時の出し物のメインは「壇浦兜軍記」三段目、いわゆる「阿古屋琴責の段」であった。阿古屋は坂東玉三郎。その頃はまだ六代目歌右衛門は元気であったが、歌右衛門以外に阿古屋を演じることができるのは、おそらく玉三郎だけであった。
 花道で七三にかかり、いったん桟敷席を向いてゆっくりと中央に向きなおる。観客席にかすかなどよめきがおこり、さざなみのように広がってゆく。いわゆる「じわ」とよばれる現象である。
 私はその時の玉三郎の姿に、古風な味わいの歌舞伎の女形の典型を見た気がした。若い頃はその美貌ゆえにしばしば女優的だと評されていたが、いわゆる古典演劇としての歌舞伎の、今では典型的な女形という評価を得ているのである。花のある役者の一人にあげても当然であろう。
このように私たちはごく普通に花という語を褒め言葉として用いるが、それではこの花とはいったいどういう理念を表しているのだろうか。
 能楽の大成者として知られる世阿弥の伝書に[風姿花伝]というのがある。大方は父親の観阿弥の遺訓を伝えたものといわれているが、能における花という理念について詳しく説かれている。
 私がこの書にであったのは、高校何年生だったかの古典の教科書であった。最初の章「年来稽古条々」が掲出されていたが、私はなぜか不思議に心ひかれていた。大学に入り、岩波文庫で全文を読んだ。
 話はかわるが、この書の序文の最後に次のような文が出てくる。

  稽古は強かれ、情識はなかれとなり。

 稽古はきびしくたゆみなく、よい意見には耳をかたむけ、ひとりよがりになるな。というほどの意味であろうが、私はこの情識という語に子どもの頃聞き覚えがあった。目上の人に逆らうと、「じょうしきをするな」とよく叱られたものだったのである。今ではほとんど使われることのない博多方言であるが、ここに語源があったと鬼の首でもとったような気になったのである。意外に博多言葉はそのかみの京言葉と直結しているのだと。私が知らないだけだったのかもしれないが、嬉しい発見であった。
 さて世阿弥の説く能楽の花とは、作品の面白さと役者の見せる演技の力と、そして舞台に展開する演出の妙と、それらをあわせた理念といってよいものと思われる。
 最初の稽古の条々の章では「時分の花」「当座の花」「まことの花」などの語がでてくる。若い役者の新鮮な魅力から生まれる一時的な花と、真の実力から生まれる花との二通りの花がまず説かれる。
 若く新鮮な華やかさも花なのだが、まことの花について世阿弥は稽古の条々の末、五十有余の部分で父親観阿弥についてだが次のようにしるしている。

 これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、能は枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

 永い修練のはてに身に得た、老骨になってもついに消えない花がまことの花なのだというのである。
 私は「風姿花伝」のもう一つの魅力は、この書が人生の指針としての意義を持っているということだと思っている。老木に花が咲く、むづかしくそして理想的な年の取り方ではないか。
 「花伝第七別紙口伝」というこの書の最終章で世阿弥はさらにこういう。

 そもそも花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知るところ、すなはち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて咲くころあれば、珍しきなり。

 観客が珍しいと思う、その心のはたらきが面白いということになる。花は四季折節に咲く時を待って咲くので賞翫される。散るゆえに咲く、それが珍しいということになり、花と例えた理由なのだといっているのである。
 さらにその後の部分では、
 「珍しいといっても、世にないような珍奇な芸能をさすのではない。花も四季折節に咲く花のほかに珍しい花があるのではない。季節に応じてその時々に咲くからこそ賞翫されるのだ。能もレパートリーを多く持ち、観客の好みに応じて演ずれば、自然の花と同じように喜んでもらえる」
という意味の文を続けている。
 どこにでもある花だが、一年に一度春になって咲くからこそ桜は喜ばれるのである。造花の桜で花見をする人はいない。
 結局、能楽における花とは、演じる側とそれを受ける観客の、面白いと思う心のはたらきがあいまって、舞台に展開する興趣ということになる。そのための工夫が世阿弥の説く花の論なのである。
 江戸時代の末、安永五年(一七七六)に出版された「役者論語」は元禄の頃の歌舞伎役者の芸談をまとめたものであるが、そのなかに芳沢あやめのこういうエピソードがしるされている(あやめくさ)。
 あやめが天王子に立花の会(今の生け花の会)を見に行った時、ほかの見物人は盛りの梅の花は珍しくないといって、見たことのない珍花を愛でていたが、あやめは梅の花に心をとめ、ありふれた花を上手に仕立てた姿に感じ入った。
 時代はくだるが中世の世阿弥の理念が引き継がれていることがよくわかる。
 冒頭の玉三郎にもどる。その後「阿古屋琴責の段」が上演されたというニュースを聞かない。次の上演がいつなのかまったくわからない。誰が演じるのかもわからないが、その時こそ、珍しさも含んだまことの花が見られることであろう。


  風姿花伝原文は「世阿弥芸術論集」新潮日本古典集成によった。訳注も同書を参考にした。
  役者論語は「役者論語評註」今尾哲也著 玉川大学出版部を参考にした。













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この国に未来はあるか。

この国に未来はあるか。
 中屋敷 宏

 無責任の横行

  
 福島原発事故からもう四年を迎えようとしている。しかし事故にかかわる問題は何一つ解決されていない。チェルノ・ブィリを上廻る世界最大の原発事故であると言うのにである。第一に事故の原因が究明されていない。原発事故の責任者は誰一人としてその責任を追及されていない。この事は非常に重要である。
 犯罪者への責任追及は、モラルとしても最低の条件である。事故を起した原発を廃炉にする目処も全く立っていない。それどころか汚染水処理もできず、現在お手上げの状態にある。原発事故のため故郷を追われ異郷で仮住まいをしている人は十数万人にも上る。その中で不安定な生活が原因で病死した人は数百人にもなる。自殺者も数多く出ている。このような原発事故の被害者の生活再建のためには何一つ有効な対策は講じられていない。
 このように原発事故にかかわる一切の問題を放置したまま、原発の再稼動だけは急がれている。時あたかも御嶽山は誰一人として予測した人もいなかった中で突然噴火し、阿蘇山も噴火した。地震学者が日本の火山は活動期に入ったと警告するにもかかわらず、桜島という大火山の下にある川内原発の再稼動は目前に迫っている。こうなるともう愚かと言うよりも狂気と言う以外にはない。もし政治家に日本国民の生命に対する責任感があるとすれば、決してこのような政策は実施することはできないはずである。ここに見れるのは国民への無責任、そして経済界への限りなき忠誠である。政治の腐敗以外の何物もそこに見ることはできないのである。
 日本の政治は現在腐敗の極地に達している。これ程まで国民への責任感を欠いた政治は、これまでの日本にはなかった。だがこの政治の堕落と腐敗に大きく手を貸したのが、われわれ国民であることも、決して忘れてはならないのである。この原稿が活字になる頃には総選挙の結果は判明しているはずだが、恐らくそこで見るのは、この無責任政治を積重ねてきた政党の内閣であろう。われわれ国民がこの政治の無責任を許容し、それを支えているのである。政治と国民、ともに無責任と腐敗においては共通した意識を共有しているのである。ではこの意識の本体とは一体何であろうか。
 

 無責任意識の本体

 政治と国民がともに共有している無責任意識の底流にあるものは、徹底した自己中心主義のエゴイズムの精神である。ある経済学者が現代日本を覆っている風潮を「今だけ、金だけ、自分だけ」という短い言葉に要約しているが、これは見事に現在の時代精神の核心をついている。あらゆる人間の関心が自分だけに収縮してしまっているのである。自分だけにしか関心がないから他人が見えない。社会や政治となるともう遠い世界である。所がこの消費社会はこの「自分」を次から次へと誘惑する。金さえ持てば何事も可能になるという幻想を抱かせる。興味はこの幻想を現実化することに集中される。その結果がどうなるか、その先に何かあるか、そんなことは問題ではないのだ。「今だけ」が問題なのである。
 国民大衆が自分に関心を集中させて刹那(せつな)的に生きてくれることは、政治にとってはこれ程に望ましいことはないのである。自分の利権を漁り、自分の地位を守ることに専念する。その結集が国の方向を大きく誤り、国民生活を追いつめることであっても、その事を真剣には考えない。むしろ適当に国民を騙す口実をさがす事に力を注ぐ。国民は自分に関心を集中させているので、大した批判も浴びない。相変らずの無責任政治というわけである。
 上から下まで「自分」と「金」と「今」だけに熱中している。このような社会全体の風潮が福島原発事故対策に見られる巨大な「社会的無責任」となって現象しているのである。このような国にはもう何の未来もないであろう。自己中心のエゴイズムの精神の上に為された一切の行動は、決して真の人間的意味における未来を生みだすことはないからである。このエゴイズムの精神を変革することで、日本を覆っているこの無責任の風潮を次第に取り除いていかねばならないのである。この事業こそが日本に未来を拓くのである。

 何から始めるべきか。
 

 徹底した自己中心主義の精神を変革することは、決して難しいことではない。人間存在の原点の精神に回帰することである。人間に対して愛情を持つ、隣人とは協力の精神を持つ、社会に対して責任感を持つ、そして何よりも大切なことは不正や虚偽を許さぬ正義感を持つことである。このような精神は古来日本人は持ち続けてきた。所が繁栄の時代とやらがやって来たため、浮かれてしまって忘れてしまっているだけである。この忘れてしまっていた精神を再び思い返すことである。そうすれば、これまで見えなかったものが見えてくる。この世の頽廃や政治の腐敗が鮮明に見えてくるようになるのである。強い正義感の持主ならば、何かの行動も出てくるかもしれない。
 私一人が、と反論されそうであるが、私一人こそが出発点なのである。その私一人が次々と増えていく。すると世の中に何かこれまでになかった風潮が生み出されてくる。そしてこの社会的風潮が揺るがぬものとなってくると、国民の動向に敏感な政治家は、自分の方からすり寄ってくることになるだろう。そしてそこに小さな変革の芽が形成されるのである。
 自分自身の精神の変革の彼方に、この国の未来を展啓する。これこそが現在われわれの前にある課題であろう。

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志士たちの史料より ―俳句・短歌・漢詩―  

志士たちの史料より ―俳句・短歌・漢詩―         


 日本変革期、時代の激流に翻弄された幕末。志士とは、一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語です。『論語』にある「志士仁人(じんじん)」が語源で、天下国家のため正しいと信じたことを、命をかけて貫く人物像を指します。その〝高い志〟は、時空を超えて、文学の核となるものだと思います。
 ここに、心惹かれる志士たちの史料より、ほんの一部を繙いてみます。(順不同)

坂本龍馬
文開く衣の袖はぬれにけり海より深き君が美心
春くれて五月まつ間のほととぎす初音をしのべ深山べの里
人心けふやきのふとかわる世に独なげきのます鏡かな
世の人はわれをなにともゆはばいへわがなすことはわれのみぞしる
 

高杉晋作
敵地とは思へど月の景色かな
いまさらに何をかいはむ遅桜故郷の風に散るぞうれしき
後れても後れてもまた後れても誓ひしことを豈忘れめや
西へ行く人を慕うて東へ行く我が心をば神や知るらむ
面白きこともなき世を面白くすみなすものはこころなりけり [下の句は野村望東尼詠む]
 

西郷隆盛
ふたつなき道にこの身を捨小舟波たたばとて風吹かばとて

吉田松陰
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな
 

久坂玄端
はかなくも浮世の人のあだ桜いづくの野辺にちらんものかは
時鳥血 爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起
 ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかにしるひとぞなき

伊藤博文
常陸帯読めば涙の玉ぞ散る人を動かす人のまことの
 

桂小五郎[木戸孝允]
今宵こそ君にひかれてたどりゆく夜のちまたに酔ふものはわれ
 

山県有朋
あたまもるとりでのかがり影ふけてなつも身にしむ越しの山風
 

中岡慎太郎
降りしきる雨を冒して思ふどち急ぐ旅路の川渡りかな
 

武市半平太
ふたたびと返らぬ歳をはかなくも今は惜しまぬ身となりにけり 

真木保臣
大山の峯の岩根に埋めけり我とし月のやまと魂
 

江藤新平
ますらをの涙を袖にしぼりつつ迷ふ心はただ君がため
 

山岡鉄舟
晴れてよし曇りてもよし不二の山もとの姿はかはらざりけり
腹痛や苦しきなかに明けがらす

大村益次郎
君が為捨つる命は惜しからてただ思はるる国の行末
 

吉村虎太郎
曇りなき月をみるにもおもふかな明日はかばねの上に照るやと
 

木嶋又三郎
議論より実をおこなへなまけ武士国の大事を余所に見るばか
 

安嶋帯刀
強いてふくあらしの風のはげしさに何たまるべき草の上の露
 

武田耕雲斎 
かたしきて寝(い)ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越の白雪
 

寺島忠三郎
武士の道こそ多き世の中にただ一筋のやまと魂
 

宮部鼎蔵
いざ子供馬に鞍おけ九重の御はしの桜散らぬそのまに
 

清川八郎
魁けてまたさきがけん死出の山迷ひはせまじすめらぎの道
 

佐々木只三郎
先がけて折れし忠義のふた柱くづれんとせし軒を支へて
 

津川喜代美(白虎隊)
かねてより親の教えの秋(とき)はきて今日の門出ぞ我はうれしき
 

飯沼貞吉(白虎隊)
日の御子の御かけあふぎて若桜ちりての後も春を知るらん
 

伊東甲子郎[新選組総長 山南敬介 弔歌]
春風に吹きさそはれて山桜散りてそ人におしまるるかな 
 

平野國臣
いくめぐりめぐりて今年橿原の都の春に逢ひにけるかな
生野山まだ木枯らしもさそはぬにあらた紅葉のちりぢりにして
天つ風吹くや錦の旗の手に靡かぬ草はあらじと思ふ
 

勝海舟
ぬれ衣をほこさんともせずこどもらのなすがまにまに果てし君かな
せめつづみ御旗なびかしたけびしも昔は夢のあとふりたける

「勅語奉答 作詞」

あやにかしこき すめらぎの あやにたふとき すめらぎの あやにたふとく かしこくも 下したまへり 大みこと これぞめでたき 日の本の 国の教えの もとゐなる これぞめでたき 日の本の 人の
教えのかがみなる あやにかしこき すめらぎの みことのままに あそしみて あやにたふとき すめらぎの 大御心に 答へまつらん

松平容保
幾人の涙はいしにそそぐともその名は世々に朽ちじとぞ思う
 

近藤勇
「時世 漢詩(七言律詩)」

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹喪能殉節
睢陽千古是吾主儔
 
(書き下し文)
 孤軍縁援(たす)け絶えて俘囚となる
 顧みて君恩を思へば涙更に流る
 一片の丹喪能(よ)く節に殉ず
 睢(すい)陽(よう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
 
其二

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺劔
只將一死報君恩 
 
(書き下し文)
 他に靡き今日復た何をか言わん
 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
 快く受けん電光三尺の剣
 只に一死をもつて君恩に報いん

土方歳三(『豊玉発句集』より抜粋)
さしむかふ心は清き水かがみ
菜の花のすたれに登る朝日かな
裏表なきは君子の扇かな
手のひらを硯にやせん春の山
願ふことあるかも知らす火取虫
春の夜はむづかしからぬ噺かな
水の北山の南や春の月
横に行き足跡はなし朝の雪
年々に折られて梅のすかた哉
春の草五色までは覚えけり
朝雪の盛りを知らす伝馬町
春雨や客を返して客に行
うくひすやはたきの音もつひやめる
公用に出て行みちや春の月
叩かれて音の響きしなずなかな
よしや身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ

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